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宝暦治水犠牲者 墓

海蔵寺など14ヶ寺(幕府方など3ヶ寺を含む)及び京都1ヶ寺に埋葬されました。真の死因は公開されず、悲しくもかの有名な「腰の物にて怪我いたし相果て候…」の古文書が薩摩藩士の悲劇を今に伝えています。

切腹自害者…51名 病死者…33名 合計84名

他に幕府方…2名  人柱…1名

 

宝暦治水工事では、実にたくさんの人がその犠牲になりました。

工事の現場である美濃の地ではもちろん、江戸の薩摩邸や国元の

薩摩(鹿児島)に帰ってから亡くなった人たちも多数おみえになります。

無事に帰った人たちも、工事の苦労を自由に話す事も藩から止められ、

藩のお金をたくさん使い、藩の財政を圧迫し藩民を苦しめた工事に参加

した人たちとして、その生涯も冷遇されたと言われています。

天照寺

天照寺 病死の27名が弔われた。

根古地義歿者の墓に墓碑が建立されたのは大正二年になってから。堂は昭和46年に建立された

海蔵寺

海蔵寺は事故死(実際は割腹)した者が埋葬されている。

治水工事が始まって50日、早くも犠牲者が出ました。永吉惣兵衛・音方貞淵の差し違いによる自害です。しかし、幕府への反抗心からと取られること恐れ、病死などと偽って報告しなければなりませんでした。また、葬儀は仕事を終えてから夜にせよのきつい幕命のため、日が暮れてから各寺を回り埋葬を願いましたが、割腹死は幕府への批判ととられるため、「腰のものにて怪我」という報告がされていても埋葬を拒否する寺ばかりだった。幕府を憚り引き受ける寺院はありませんでした。

 

最期に海蔵寺に願ったところ、十二世雲峰珍龍大和尚は「死者を弔うのは僧侶のつとめ」と快諾し、手厚く埋葬して戒名を過去帳に残しました。

 

平田靭負が幕府に提出した報告は「腰のものにて負傷、同日死亡」という「事故死」扱いであった。諫死ということであれば、幕府に対する批判ととられる上、島津家中では勝手な割腹は御家取り潰しという掟があったため、国の家族が路頭に迷うのである。