戊辰戦争に負けた仙台藩、亘理支藩は領地を25000石余からわずか58石に減らされてしまい、この地に住み続けるには南部藩の農民となるしか方法がないという厳しい状況に追い込まれてしまいます。
悩む伊達邦成に、家老の常盤新九郎(後の田村顕允)は、「このままこの地にとどまり祖先の名を汚すより、みんなで蝦夷地に移住し、新しい町を作りましょう」といいました。
邦成は、問題がたくさんあるけれど、蝦夷地への移住を決意したのです。
早速、常盤新九郎は明治2年8月、上京して亘理伊達家が自費で蝦夷地に移住して開拓することを政府にお願いしました。
政府も、早く蝦夷地を開拓することが必要だと考えていたので、賛成してくれました。
そうして邦成は新しく胆振国有珠郡の一帯の土地をもらい受け、本格的な移住開拓に乗り出すことができました。
9月18日、邦成は亘理伊達家の菩提寺である大雄寺に家臣を集め、有珠郡一帯の開拓許可を国から受けたことと、それにむけての決意を発表しました。
家臣は、涙を流して二度とこの土地へ帰らないと覚悟したと伝えられています。
伊達市では、開拓の許可が出た明治2年8月23日を開基の日と定めて、毎年この日を開基記念日としています。(伊達市こどもホームページより抜粋)
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