蓬莱橋の由来(渡橋券より)
1869(明治2)年7月、最後の将軍慶喜(よしのぶ)を護衛してきた幕臣たちが大井川右岸にある牧之原台地を開拓してお茶を作り始めました。
当初は大変厳しい環境の中で、筆舌につくせない苦労の連続でしたが、そのかいあって順調に茶の栽培が営まれるようになりました。
生活が安定するに従い対岸の島田宿の方へ生活品や食料品を買いに出かけるようになり、また島田宿方面からも山林・原野を開墾する者が往来するようになりましたが、当時満々と流れる大井川を小舟で渡ることは、大変危険なことでした。そこで、島田宿の開墾人総代達は時の県令(現在の知事)に陳情し、許可されて1879(明治12)年1月13日に大井川を渡る蓬莱橋が完成しました。
現在の蓬莱橋は、全長897.4m・通行幅2.4mで、1997(平成9)年12月30日に『世界一長い木造歩道橋』としてイギリスのギネス社に認定されました。
橋の名称は、静岡藩主となった徳川亀之助(後の家達=いえさと)が1870(明治3)年4月に牧之原を訪れた際、開拓する幕臣たちに「ここは蓬莱・宝の山だ。」と激励したことがいわれと伝えられています。
勝海舟之像解説
勝海舟は、1860(万延元)年、徳川幕府の咸臨丸の船長として渡米し、この時にお茶が世界的な商品価値を秘めていることを認識する。
帰国後、西郷隆盛と交渉して江戸城無血開城に成功し、新政府の要職を歴任した。
1869(明治2)年、勝海舟たちの命を受け、中條景昭、大草高重が指導する旧幕臣たちが、牧之原台地で1425㏊の茶畑の開墾を開始した。
勝海舟は、旧幕臣たちから様々な問題に関して相談を受け、経済的な援助も惜しみませんでした。
1875(明治8)年に官職を辞した後も、影に日なたに牧之原台地開拓士族を物心両面で援助し続けた。
また、1873(明治6)年には、仕事を失った川越人足たちも約30㏊の茶畑を開墾し始め、1878(明治11)年には役41㏊に拡張された。
この過程で対岸の島田から開墾に参加する者や、牧之原台地から大井川を渡って島田と交流をもつ旧幕臣が増えた。
当初は小舟を利用して大井川を渡ったが、あまりにも大変であったため、許可され架けられたのが「蓬莱橋」である。
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